「えこふぁーむ・農民芸術学校」掲示板

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新掲示板のお知らせ 投稿者:マッキー  投稿日: 8月24日(日)22時35分6秒

この掲示板(レンタル)が、近々利用できなくなるということなので、新しい掲示板を下記のアドレスに設置いたしました。今後は、新しい掲示板を利用してください。この掲示板のログも消去されますので、必要があればパソコンに取り込んでおいてください。過去200件分は保存されています。今度の掲示板では、過去ログも1000件までは消去されません。

http://ecofarm.1616bbs.com/bbs/


死海写本 投稿者:マッキー  投稿日: 7月30日(水)00時07分9秒

シナイ写本より古い約2000年前に書かれた死海写本は、1947年に発見されたものですが、旧約聖書のほぼ全文の他に、イエスの死後からキリスト教成立以前にかけての重要な文書を多数含んでいます。これには、正統的キリスト教を揺るがす内容を含んでいるということからか?(http://ja.wikipedia.org/wiki/死海文書)
 全体は公開されていません。シナイ写本よりも、死海写本の方を、全文公開してもらいたいものです。


道具を使うサル 投稿者:サム  投稿日: 7月29日(火)08時47分29秒

昨夜ぼんやりテレビを見ていたら石を使って椰子の実を割るサルが見つかったとの番組をやっていました。次の「主役」はやつらかな・・と思いました(笑)人間が絶滅したあとに彼らがまた人間みたいになっていくのかも 考えてみればこんなことが何回となく起こっていたのかもしれません。人類の歴史なんて短いですからね・・・何億年というスケールだと何回も人間のような種が出現しては滅びて、ってことが繰り返されていたのかも 昔のことは確かめようがないですからね 炭素を使った年代推定もせいぜい数千年ですから何百万年、何千万年 何億年前のことはわからんですね 


シナイ写本 投稿者:ヤブコギスキー  投稿日: 7月28日(月)06時51分45秒

先週あちこちで話題(technobahn)になっていたのでご存知かとは思いますが、1600年前にギリシャ語で書かれたシナイ写本をウェブ上で一年くらいかけて全文公開するそうです。英語への翻訳機能も付いているようです。→ http://www.codexsinaiticus.org/

キリスト教徒じゃありませんが、面白そう。問題は英語力が…。


○× 投稿者:ヤブコギスキー  投稿日: 7月25日(金)06時39分16秒

学生という若い時分に収まりの悪さを許容できるかどうかというと、なかなか難しいんじゃないですかね。例えば、○と×、善と悪、得と損というものに見られる二元性は相互に疎外し合うんですが、実存というものに付いてまわるパラドクスでして、実存を脅かされることに起因する不安を解消しようとして共有不可能なものを目の前から排除すると、実存を脅かされたものもまた他者の実存を脅かさざるを得ないという、実になんともはや如何ともし難いものが横たわっておりまして、二元論的にスッキリさせると自分は幸せになっても他者は幸せにならないという自体が起き得るんですよね。

少々乱暴なんですが言い換えますと、価値相対的な二項の図式は自ずと背反を疎外するんで、それを回避しようとして普遍性(絶対性)という相対化不可能なものに還元しようとすると、個々の項が普遍性に埋没するんですね。で、埋没を回避するために項に個有名を付与しようとすると、固有名は価値相対的な二項の図式を採らざるを得ないので、再び二元論に還元されてしまうことに。結局、収まりが悪いったらありゃしないのですが、

それを七転八倒しながらどうやって乗り越えるかというと、七転八倒しつつ包摂という不合理を抱えないと収まりそうにもないのですが、不合理なのでやっぱり収まりが悪いというオチが(笑)。


気になること 投稿者:サム  投稿日: 7月24日(木)09時44分3秒

ついでに
お互いになんとなく分かり合う というのが大事といいましたが、最近の学生を見ていて気になることがあります。それは「正解」に対する異常な執着です なんでもかんでもすきっとした正解をほしがる・・講義でも「練習問題をだしてくれ」とせがまれます 七転八倒して考えるという訓練が出来ていない 私は常々「わかんないことが大事なんだよ」と言っていますがそんなことばっかり言ってると「ダメ教師」のレッテルを貼られてしまいます(笑) 善か悪か? 得か損か? ○か×か?・・・皆なんだか単純に考えすぎますね この辺りに問題があるように感じています。ある意味謙虚さが必要ですよね 自然のほんの一部を考え見る くらいに思わないと・・そうでないと「科学でなんでもできる」なんて勘違いしちゃう!謙虚な姿勢というのはもしかしたら絶対神を認めた人には備わっている姿勢かもしれませんね


心の中に? 投稿者:サム  投稿日: 7月24日(木)09時28分58秒

このところ毎朝 仕事を始める前のひと時が楽しみになってます(笑) ヤブコギスキーさんに「まとめて」もらって私自身も書き散らしたことの整理がつくように思います。白状すればこれまでに何度か「神」を求めたいと思ったことがあります。現実を冷静に受け止めて突き進むということに徹することが出来るほど私は「強く」ないからです。でもそのたびにためらってきました。それは目の前に見える宗教者の姿をみると少なからず幻滅してしまうということがあったことも原因です(マッキーさんも取り上げていたような教会のスキャンダルなど・・・)それと信仰が目的なのか生活・人生が目的なのか?という類の人々も見かけます。まあ私は「悪い例」ばかり見ているのかもしれませんが・・・もし「神」について私自身が折り合いがつけられるような話をしてくださる人物が現れたら私も安心して(?)信仰するかもしれませんね・・
絶対か相対か?哲学か宗教?難しい問題です 私は少し「意固地に」なって科学を振り回しましたが、この問題は人間の「こころ」の問題です こころの中、その構造・仕組みは到底科学では説明できないと思います。 心の問題は理論やましては暴力では解決しない こうやって人間と人間が語り合いそれぞれがなんとなく「そうだな〜」と感じることしかできないのかな?と思ったりします。そういう意味で「相対的」な決着ですね(?) Aさんは絶対神を拠り所にして論ずる Bさんは科学をもとに論ずる Cさんは哲学をもとに論ずる・・・そんな風に その結果として「統一見解」をって考えると難しくなる 少なくとも自分のこと(考え)を他者に「わかって」もらえるっていうのが大切だし、その人にとっての「幸せ」でしょう 地球上の人類がすべてただひとつの神を信仰するなんてのは極めて異常で気味が悪いしそんなことは不可能でしょう でもお互いが「なるほどね」って分かり合えればずいぶん良くなるでしょう
今回の一連の議論の発端は「幸せって?」ということだったような・・・
こんな風に議論すること自体が「幸せ」に感じます(笑)


父なる神 投稿者:マッキー  投稿日: 7月24日(木)07時28分15秒

イエスは、神のことを「私のお父さん」と呼びました。もちろん。本当の父は大工のヨセフです。聖書ではイエスを神の子とするために、ヨセフはマリアの夫ではあったけれど、マリアはヨセフと結婚する前、処女であった時に聖霊によって身ごもったとされていますが、そういう荒唐無稽な話を信じるのはナンセンスでしょう。しかし、イエスは父のような存在としての神を前面に打ち出して、この世に闘いを挑んだのです。

家父長制を絶対的なものと認めることはできませんが、すべての人にとって絶対的な存在としての父のようなものとしての神を、私は信じます。つまり神は、人類創造の存在であると同時に、それを養い導く人格を持った存在でもあるのです。イエスにおいては、ユダヤ民族の歴史と共にあったユダヤ教の神でもありましたが、しかし過去も現在も未来も永久に存在する創造者であり支配者としての神が、ユダヤ民族だけの神であることは矛盾していると悟ったイエスは、全人類、特にユダヤ民族からも阻害されたり虐げられたりする人たちにとっても父である神について語ったのです。

過去に、自分の信じる神こそが絶対だと言い張ることで争いが生まれ、血なまぐさい宗教戦争がいくらでもありました。現在の対イラク戦争にも、そういう一面があります。だから、絶対的な唯一神などというものは否定すべきだというのは、単純で判りやすい話のようにも思えますが、それは唯一神というものを誤解していることになるでしょう。八百万の神々の中の最高神というようなものではないのです。

キリスト教で言うところの唯一の父なる神とは、決して抽象的な哲学的な汎神論的な存在ではなく、我々の生活にとって直接大きな影響を及ぼす具体的な存在としての神です。私は、キリスト教が完全であるとは考えていないし、キリスト教を信じなくてはいけないとも考えていませんが、そういう神について自分は信じています。キリスト教とは何かと言うと答えるのは難しく、キリスト教と一言で言ってしまうには、余りにもヴァラエティーに富んでいます(仏教ほどではありませんが)。しかし、イエスを神の子、救い主と信じるという点では、一致しているでしょう。あくまでも、「子なる神」ではなく「父なる神の子」です。私は、キリスト教については好きとも嫌いとも言えないところがありますが、イエスという人間を好きなのです。キリスト教を捨てても構いませんが、イエス主義者であることを捨てることはないと思います。


神の概念 投稿者:ヤブコギスキー  投稿日: 7月23日(水)17時51分55秒

サムさんが前提としておられる不確定性原理に裏打された考え方と神という概念の構造に違いはないと思われます。私は宗教者じゃないので語弊があるかもしれませんが、おそらく神は絶対的なものとしてあるのではなく、おそらくビックバン以前の状態に限りなく近いものになっていると思われまして、そこでは数理論理学も通用しない状態なので人間には「分からない」領域ですよね。確率的には偶然も必然もへったくれもない、そう分からないんです(笑)。

そうなると「神」の検証不可能は問題としては成立しないわけでして、「神」を相対的なものとして捉えて論理を組み立てないと概念としては成立しなくなるんですね。ですから「世界の有意性は神の無意味性によって支えられている」も真となるし「世界の無意味性は神の有意性ゆえ」も真となり得る世界だと思われまして。ということは、実は「よりどころ」という絶対性は意味としては成立しないんじゃないかと思われます。つまり、サムさんの仰る通りなんです。真理の探求は再帰的にならざるを得ません。それはもう実に科学者っぽいのでうれしくなってしまうのですが、がしかし

宗教がなぜ栄えたのかに思いを巡らすと、仏教にしろキリスト教にしろ前述したような再帰性に苦しんだからじゃないかと思うんですよ。底が無い状態に敏感で、それに苦しむ人々が積み重ねてきた営みが信仰なんじゃないですかね。宗教は信仰のプロセスそのものが再帰を食い止める機能を提供しているのではないかと、一年半くらい牧野さんの言説に触れてそのように解釈するに至ったんですけど、ですから牧野的「真理の探求」は信仰のプロセスそのものであって科学的なアプローチと構造的には変わらないと思うんですよ。営みに数理的な解釈を持ち込むか持ち込まないかの違いなんじゃないかと思うんですが、それは仏教も変わらないと思います。仏教は内なる神秘を主観によって解釈しようとする信仰のプロセスともいえるので、超越系なキリスト教も修行系仏教も信仰のプロセスという底を仮定して再帰を食い止めようとするという構造においては何ら違いはないと、一緒にするなと怒られるかもしれませんが非宗教者の私なんかはそう解釈しているのですが。

で、なぜ牧野さんが神の絶対性を前提とされるのかは、それはもう牧野さんが弱いものだからということに尽きるんですが、神を承認するということは自身の承認という機能と相対的な関係にあると思われまして、それは疎外を回収するという宗教の大切な大切な役割りなので、神が前提となる営みというのは研究に打ち込むのと同様に実に尊いものであると思います。絶対的な神を想定しているようで、実は神への相対的なアプローチを希求しているように見えるのですが、それはつまるところ神が包摂性を帯びているからなんじゃないかと思うんですが、違いますかね?


補足 投稿者:サム  投稿日: 7月23日(水)08時41分15秒

絶対は無い・・ 例えば ある任意の原子や分子の空間上での位置を一意的に決めることすらできません これらは熱運動で揺らいでいますから・・平均的な位置しかわかんない。一方で「絶対零度」という温度があります。「絶対」です この温度ではすべての熱運動は凍結されます。原子・分子も止まります じゃあこれが絶対的な状態? でもこの絶対零度の状況を人間は見ることは出来ません。見るためには光を当てて反射させないといけない。でもすべての熱運動は凍結しているから「見る」ことは出来ない。これも「外挿」で考えた状況です。 見えないものを考えるというのも大変難しいことです。 原子があるのかどうか で、もめていた時代 ボルツマンはいろいろ考えると原子というものがないとおかしいと考えて発表しますが、マッハにボコボコにされる・・「ありもしないものをあれこれ言ってもしょうがない」って それで口下手なボルツマンは悩んで自殺してしまう。でも原子はありそうだってことになったのは彼が死んでからです。 
基本的に、現在の測定精度で観測される諸々の現象を無矛盾で説明できればそれでよし、というのが科学の立場です。でもそれはどんどん「更新」されていく。最前線でやってるヒトは現状の理論のアナをよく知っていますから「これはイマイチなんだけどな〜」と思っていると思います。彼らにとっては「絶対」などないのです
「真理を探究」できれば幸せになるか? これは微妙な問題です。逆説的に言えば真理を探究しなければ幸せになれないなら 人間は幸せになれない ということになってしまいます。


絶対とは? 投稿者:サム  投稿日: 7月23日(水)08時10分52秒

私は子供の頃からいろんなことに疑問をもち「世の中のオトナ」がキライで何が「よりどころ」になるのかな?と考えた末「科学はウソをつかない」と思い、そっちの方面に進もうと考えました。曲りなりに科学をあつかう仕事をやるようになり、だんだんわかってきたのは科学で真理は明かされないということでした。よく真理の探究といいますが、これは科学者が「表向き」に作ったキャッチフレーズであり、本当に良心的な科学者は真理なんて究められないと認識していると思います。でも真理に近づこうとはしているんですね昨日よりも少し多く知りたい ということで毎日を過ごしていくという感じです。
マッキーさんのおっしゃるとおり「疑う」ということが非常に大事です。何事もここから始まりますね 
私はかねがね感じていたのですが、キリスト者(良心的な)はどのようにして神という存在を自分のなかに作っているのか?目の前にある赤いリンゴの存在のように存在を信じているのか?観念的なものなのか?知りたいと思います  ・・・でもこれは人それぞれで違うのでしょうね? 私は中高と仏教系の学校に通っており、無理やり(!?)宗教教育を受けました。多感な少年時代に宗教の話を聞くことが出来たのは得がたい体験だったと思っています。私は仏教は宗教というより「人生哲学」に近いなと感じています。
「人間にとって拠り所は必要・・・」その通りですが、それを「絶対的な神」に求めるのは少し安易なような気もするのです(すみません) だって浮世には「絶対」ってないですからね・・そのような状況で生き抜くには「相対的」な感覚でやっていくしかないと思うのです。ヒト(生き物)にとって「絶対」とは「死ぬこと」ですね 必ず死ぬ 私は40歳を超えたあたりから「如何に生きるか」よりも「如何に死ぬか」という風に考えるようになりました。それでどうやったら満足して死ねるかと考えるようになりました。
悩みや苦しみはありますが、日々研究に没頭し、時には音楽を楽しむということでなんとかやっていけるかなという感じです(笑)

洋楽と邦楽について  これはひとつには「建物」の違いがあるのでは?石やレンガの建物と木と紙の家の違い・・・ 音楽は昔から室内で演奏されることが多かったでしょうね?だからその「箱」に合った音楽になった・・っていう一面もあると思います。 ブルックナーの交響曲の金管パートの譜面を見ると「死んでしまう」と思います(笑)木造建築の建物の中で演奏したら本当に「死人」が出る(爆) でも石造の教会で演奏すれば 全音符を目一杯吹かなくてもきれいに響く(残響があるから)だから、記譜の半分くらい息を入れれば大丈夫 でも聴衆に聞こえるのは「全音符」でしょう(オルガンのように!) 音楽って作られた状況が大きく影響しますよね ヨーロッパではブルックナーがものすごく人気があるというか高い評価らしいですね 神様のために作った音楽・・ 交響曲でよく出てくる上昇音階は天国への階段だとか・・・下降音階もありますね 神様(天使)が降りてくる? キリスト教を信じる人たちは音楽をそんな風にも感じることが出来るのですね 私といえば・・ブルックナーはクライマックスで酸欠になり目の前が黄色くなる音楽ナリ・・(笑)


真理の追究、絶対的な神とは? 投稿者:マッキー  投稿日: 7月23日(水)01時04分10秒

 科学も宗教も、真理を追究しようという点では、同じだと思います。仏教のように「神」を前提としない宗教もあるわけです。無神論だって、一種の宗教みたいなものだと思います。
 真実を知ろうとすることは、人間の本能と言えるでしょう。科学は、技術として応用されますし、宗教は祭儀として応用されます。科学や宗教のないところに、技術や祭儀は生まれません。
 一方で芸術は、何を基礎に生まれるのでしょうか。例えば音楽ですが、音そのものは空気の振動という物理現象なわけで、和音だとかリズムというものは、ほとんど単純な整数比というもので説明することができますが、西欧音楽と日本の音楽では根本的にかなり違いますね。他の芸術作品に例えれば、西欧音楽は精巧なレンガ建築みたいなものですが、日本の音楽は紙に書いた墨絵のようなものと言えるでしょうか。しかし、どちらも人間の心に大きなインパクトを与えることができます。

 話は変わり、私は神を信じますが、それは常に疑うことの裏返しです。疑うことをしない信仰は偽物だと思っています。「信じる者は救われる。」などと言いますが、大抵「信じる者はだまされる。」わけです。だから、だまされるくらいなら信じないという宗教嫌いの人のことも理解できます。はっきり言って、福音系クリスチャンの人たちよりは、無宗教の人の方が、ずっと好きになれます。全く疑いを持たずに信じている人を見ると、本人が熱くなればなるほど、こちらは何だか寒気がしてきます。しかしながら、人間にとって拠り所は必要であり、絶対的な神というものを信じられないということは、絶対的でないものを拠り所にする危険性をはらんでいます。
 だからこそ、イエスは絶対的な神を語って既存の宗教家や政治家と対決したのであり、絶対的な神というものは、絶対的な力をふるうものに対抗する手段でしかないのです。


もうひとつ 投稿者:サム  投稿日: 7月22日(火)09時47分32秒

付け加えると・・宗教は私自身にとっては決定打にはならないと感じています。大前提の「神」を承認しないといけない・・でもそれは検証不可能 だからどうしても折り合いがつけられない(笑) 確かにひとつの「よろどころ」としては良いと思いますが 「絶対的なモノ」に本能的に拒絶してしまいます(笑) 日頃実験したりしていても「絶対なんて絶対にないな〜」と感じてますから・・・ あるのは「まあこんなもんか」という妥協ですね(笑) もっと言えば神様がいたら「みもふたもない」って感じがあります まあひとそれぞれでしょうが・・・でもニュートンは神様と対話しながらあの仕事をしたわけで、超人的なことをするにはやはり必要なのかもしれませんが 音楽もそうかも そのあたりどうなんでしょうか??? 「科学的」にはある精神状態になるとドーパミンが異常に分泌されてそれが「神の祝福」という風に感じて驚異的な創造活動を可能にするって感じかな〜って思っていますが・・・


不安の解消法 投稿者:サム  投稿日: 7月22日(火)09時34分44秒

生き物を現在の(そして将来も)科学できちんと説明できるようになるとは思えません。科学ってそんなにすごいものではないのですね(笑)それは科学者自身が一番良く知っている 「私は大海の前の砂浜で遊んでいる子供に過ぎない・・・(ニュートン)」 中谷宇吉郎の「科学の方法」(岩波新書)は私の座右の書ですが、一読をお勧めします。科学って「将棋」や「マージャン」みたいなものなんですね・・ある条件の中で有効なだけなんです。現実の現象はあくまでも「外挿」で予想しているだけなんですね。でもほら大きな「あそび」があるからたいていは上手くいく。「科学は万能」とかいうのは科学を知らないマスコミです(笑)あるいはある意図があってそういっている人たち・・・
でも生き物だけはそれが違うようです。それは生き物には「自己調整機能」があるからなんでしょうね? 例えば ボールに力を作用させます。そしてその力を欠けるのをやめてもボールは運動し続けます。そしてその軌道は予測可能です。でも生き物はその「軌道」を自分でいろいろに変える事ができる ここが厄介です。

おっしゃるように、コミュニティー:すなわち「人がてくてく歩いていけるはんい」での社会っているのがもっとも可能性の高いゴールなんでしょうね。不安ってなぜ生じるか?「わからない」ってことが原因でしょう わからないから情報をほしがる 情報にはいろんな質がある かつ 人間はナマケモノですからお手軽に手に入れたい 安直な情報 記号的な理解ですが・・ 科学=なんでもできる 高学歴=豊かな生活 とか・・・ なんでも「天下り的」に受け入れてしまう。これが一番問題です。 そこで科学です 科学は検証する学問です。実験(再現)可能なもののみが対象です。酸素と水素が反応したら水になるって教科書でいくら勉強しても「なっとく出来ない」ですよね(笑)でも簡単な実験を自分ですれば一生忘れない モノゴトは自ら実験して検証すれば納得できる。 すべてのことが実験できるとは言いません。でも自分で確認できることを確認してそれを外挿するという訓練をすれば 少しは不安が減ると思います。

ひとつ注意 この世の中の「悪い」ひとびとはこの人間の不安をたくみに利用します。某大国は常に国民の不安をあおって国自体を回しているように思われます。常に「敵」を想定して「何時攻めてくるかわかんないよ!」という不安を用意している いろんな手段で、例えばハリウッド映画だって利用する あるときはソビエト あるときは宇宙人 そして最近は・・・ 不安が国民をつなぎとめる唯一の手段では悲しいですね あまりに大きなものをひとつにするのは無理があるのでしょう(会社だってそうだ!)そして不安をあおった末に持ち出すのが安っぽいヒューマニズムです。非常に上手く作ります。ヒューマニズムは非常に危険です 感情論で行動してしまう。

話がそれてしまいましたが、私は自分でよく考えて客観的に判断ができるような教育をして変な不安にあおられないようにする 身の丈にあったスケール(空間的、経済的)で生活をする ということでなんとかなるのではないかと考えます。例えば 食べ物を手に入れるには土を耕さないといけないんだよってことから子供にちゃんと教えていくっていうことが少なくとも私に出来ることかなと思っています。 そういった教育の方法として科学を使っていけばいいのかな と 


協同性の発現 投稿者:ヤブコギスキー  投稿日: 7月20日(日)04時07分31秒

現役の物理屋さんの前で語るのは気が引けます。というか恐いです(笑)。

とはいえ共同体には越えられぬパラドクスが横たわっていることも事実でして、じつは阿吽の呼吸も以心伝心も自由を拘束するという一面と、それが通じる領域と通じない領域という線引きを伴いまして、一歩間違うと疎外に繋がるという落し穴もあったりします。私はこの疎外を解決する論理を持っていません(笑)。ドーキンスのいう利己的な遺伝子説やエントロピー増大の法則を引くまでもなく疎外ではない状態は不合理で、サムさんが仰るように洗脳的という合理性に適わないことでもしない限り共同体は維持できないものなのかもしれません。

それと生命とか生き物は難しいのでしょうね。おそらく論理に適うように構成されてそうもないので、その道の研究が進んでくれない限り門外漢には手も足も出せません。しかも、まあエントロピー増大の法則と地球上で生命が進化し続けてきたという秩序との矛盾の説明はサムさんに譲るとしても、生命も生き物も物質から構成されているという不思議、それは物理的な現象として表現することが可能となる日がくるんでしょうか? 宇宙の誕生も生命の誕生も偶然の産物だとしても、また神の創造物だとしても、少なくとも人間の意識(心)の揺れ動きがなぜ起きて、なぜこうも人間は意味を求め続けるのか、せめて科学的な知見によって解釈できるような日が来ると、争いとか戦争ってなくなるような気もするんですけどね。

といっても、協同性の発現、という能動へと移行する切っ掛けは…仰りたいことはよーく分かります。でも私には解答を提示するだけの能力はありません(汗)。仮に、生存のために生存しているとすると、エネルギーのやりとりも、人間というシステムは閉じてるようで開いているようで閉じているようなもんじゃないですか(笑)、相対的な関係性もあれば、人間の集合に内包されるという関係性もあるので、一人の人間が生命を育むという内的動機と外側との兼ね合いによって生き辛さのようなものを解消しようとする動機付けが付与されると、それによって外側のシステムを変えようとすることによって再び自己言及するから協同性が生じ得るのではないかと思うんですが、って全然エネルギーのやり取りの話しになってないですね(汗)。

とにかく「でもその変わる先は昔にもどるのではなく何か新しいところでしょうか?」は難しい問いです。現在先進国では監視社会へと移行中ですが、おそらく監視しなければならないという不安を埋められるのは信頼という関係性だと考えられるので、信頼の機能とプロセスの面に注目するなら細分化されたコミニティ志向は回答の一つなんじゃないかと思います。それがムラ共同体でなければならないという理由はないのですが、農的コミニティでも、宗教的コミニティでも、企業というコミニティでも、共産コミニティでも、身の丈にさえ合っていれば何でもいいと思います。


生き物には顔がある 投稿者:サム  投稿日: 7月16日(水)08時47分36秒

鋭い(素朴な)ご指摘ですね おっしゃるとおりだなって思います。物理屋の悪い癖でなんでも単純化して考えてしまいがちです。ヤブコギスキーさんのおっしゃるとおり、生き物には顔があるんですね・・・「人間100人の集団」って扱うわけにはいかない ここが生物の難しいところで私が挫折したところです(笑) 確かに「空洞化したムラ共同体」っていう社会においてはいろいろと難しい面があるのでしょうね・・阿吽の呼吸とか以心伝心っていうのはその根本に地域社会全体で取り組んだ教育(しつけ)があったと思うんですね そしてそのしつけは必ずしも合理的でないものもあったと思います「こうだと言ったらこうなんだ!文句言うんじゃない!」って近所のおじさんに叱られたとか・・・頭ごなしのこのようなしつけは一種の洗脳でしょう(地域社会の一員になるための)。これは会社でもありますよね 私は会社員になったことがありますが、そのときの新入社員研修は「洗脳だな」って感じました(洗脳って言葉が適切かどうかわかりませんが)その地域・社会のメンバーが共有する一般概念みたなものがあれば「いわんでもわかる」ということになるのでしょう とすると問題は教育ということになりますね カタカナでいうとリテラシーの問題というか・・・「わかる」ということですね 最近の学生を見ていて思うのは知りたいっていう意欲が希薄であること、やたらと理屈をこねるということなどが気になります。
基本的に自然の前では人間は無力、という事実をあまり認識していない。困ったらリセットボタンを押して前のセーブポイントからやり直しって考えているみたい(笑)これをなんとかしないと・・・
前に「協同性」で受動的に転移するのではということを書きましたが、やはり(生き物は)一人ひとりの意思で能動的に変わらないとダメなんでしょうね 能動的に変わるということは何がしかのエネルギーを使わないといけない(熱力学の教えるところです) 「こうすれば幸せになれる」というイメージがあればエネルギーを使おうかってなるでしょうね そうでなければ「そんなのかんけいねい」ってむちゃくちゃになるんでしょうね どうしたらいいでしょうかね?
でもまあいろんな意味で物質化したこれまでのやり方に対して「ゆり戻し」が始まっているのは確かですね 意思のある人間ひとりひとりが幸せを真剣に考えれば変わっていくでしょう でもその変わる先は昔にもどるのではなく何か新しいところでしょうか? 宗教や科学はひとつの道具であるにすぎないと思います。 だって宗教も科学も人間が作ったものですからね


誤差の視点 投稿者:ヤブコギスキー  投稿日: 7月15日(火)23時30分1秒

相互作用を人間や社会に適用しても予測したり誘導するのはとても難しいと思います。生命と生命のやりとりですから、その生命それぞれに前提を供給しあっているという事象を各々の生命の内側から把握するのは難しいといいますか、内側から全体性の観察って辻褄が合いませんよね。宇宙も内側からしか観察し得ないということと構造は変わらないし、もちろん、それは神も同じことですよね。人知を越えた領域を一つひとつ埋めて行く過程がサイエンスで、人知を越えた領域に在るであろう何かへと接近しようとするのが宗教ですかね。

で、相互作用と幸せなんですが、人の振る舞いは他者の振る舞いによって変化し、その変化によって他者の振る舞いも変化するというのが基本形だとすると、ところが関係する人が増えるに従って人々全体からも影響を受ける可能性が出てきちゃうわけで、すると把握できない未知の領域が不安となって人々に襲いかかるようになります。その不安というのは、他者の振る舞いを予期することが難しくなることを指しています。この不安以前は、所謂、呵吽の呼吸ですとか以心伝心と表現されるような日本という共同体内で積み重ねられて来たもののベース、それを共通前提っていうんですけど、その共通前提が呵吽の呼吸や以心伝心を下支えしていたんです。でも、それが当てにできなくなると社会を回すのにコストがかかるようになります。そのコストの部分は阿吽の呼吸が通用しないので一々摺り合わせなければならなくなったり、また以心伝心も困難になると疑心暗鬼となり監視することへの敷居が低くなることに現れるようになります。まさに、現在の日本の状態そのものです。

ですから、私のような凡人にとっては宗教やサイエンスとは趣が異なっている領域に幸せの種が転がっていると思われまして、まあ、「がまん」は環境や食糧というものを想定しておられるのでしょうから「がまん」を前向きに捉えたいと思うのですが、それよりなにより、住民という立場になったときに空洞化しているムラ共同体のなかで右往左往する不安を埋める手立てが、意外とやっかいなんですね。これ、宗教や研究まっしぐらな方にとっては縁遠いお話しなのでスルーしていただいて結構なんですが、庶民と申しますか、大衆と申しますか、その他大勢に埋没する人々の視点からアプローチすると、こんな感じです(笑)。


のぞみは誤差 投稿者:サム  投稿日: 7月13日(日)15時50分27秒

とはいっても 地球が孤立系であれば最終的にはエントロピーが増え続けて「熱的終焉」を迎えてしまうのですが・・・ でもこれも「厳密に言えば」の話です。モノゴトすべて誤差があります。パチンコ玉の運動も中学で習う運動方程式にだいたい合うような結果になります。あといろいろ近似することで統計力学を使ってかなりのことが記述可能です。ようするに「あそび」があるんですね 今のままではダメですが、なんとか少しづつ「がまん」することで「あそび」の範囲で人間も救われるんじゃないかなとも思います(希望的観測)
そのがまんをすることで先日以来話題になっている「幸せ」を体感できるようなことになれば人々は相互作用を強めてうまく乗り切るか!? 学者バカのノー天気な考えでしょうか?(笑)


奇跡? 投稿者:サム  投稿日: 7月13日(日)15時39分45秒

「人間に与えられた驚異的な創造性は、神の属性の一部とも言えるが・・・」
確かにその通りですね このことについては科学者もなんら解答を得ていないと思います。確率を考えるとどうにも説明しようがない・・仕事柄、統計力学ってのを使います。あるモノの状態を記述する方法ですが、「ありえる状態」の数を全部数え上げられなければ正確にはモノの状態は記述できない! で正確に記述できるのはなにか?というと厳密に言えば何もない!! パチンコ玉一つの運動でさえ厳密には記述できない。例えばパチンコ玉を飛ばしたときの初速度や飛び出す角度、方向が分かっていても例えば近くをハトが飛んだらその相互作用でパチンコ玉の運動状態が変わっちゃう アダムが農業を始めたきっかけはいくつかあるんだろうけれど、その道を選択する確率は極めて低い 何者かの恣意がなかったのか??と考えたくなります。一時は生物学をかじったこともありますが、イキモノは科学の対象にならん!っと見切ってしまいました(笑) 人間という存在が生み出されたのが奇跡ならば 現在の絶望的な状況をなんとかするという奇跡も起こるでしょうか? 一つ希望があるのは「協同性」という性質です。お互いがそこそこの相互作用で関連しあっているモノは変化するとき協同的に振る舞い、その変化が非常に急激になる (例えばヒトラーに洗脳されたドイツの人々の振る舞いなど・・・) 協同性が発現すれば普通じゃあ乗り越えられないエネルギー障壁も越えるということはありうるかも そのためには相互作用を強める、最初の一撃を誰かがタイミングよく打つということが問題です。


原罪と文明 投稿者:マッキー  投稿日: 7月12日(土)23時16分11秒

アダム(土の人)が禁断の知恵の実を食べたということの意味は、土(アダマー)を耕すという行為により自由を得たということであり、創世記には農耕そのものが神の与えた罰であるかのように書かれているが、実はそのような行為こそ神から離れるという意味である原罪(sin)そのものであるとも言える。
 農耕民の祖先であるアダムは、神と共にあった先住民の生き方と決別し、神の創造した自然の中でエコロジカルに生きることを止め、農耕を基本として富の集中、権力の集中を行う文明社会をスタートさせた人類の象徴である。そのような文明は、自然破壊や人心の乱れによって、常に滅びをもたらして来たが、現代文明もまさに、滅びの時を迎えつつある。
 人間は、あくまでも自然の生態系に組み込まれた一生物であることを忘れてはならないし、その精神には生物としての永遠性を保持するためのプログラムがDNAに組み込まれている。人間に与えられた驚異的な創造性は、神の属性の一部とも言えるが、それをどのように使うかという哲学がなければならない。人間が神になり代わることなど到底不可能であるし、神への畏怖を忘れた人間には神の審判が下され、そこには破滅以外の道はない。そのことを教えるのが宗教であって、宗教を忘れた科学万能主義に未来はないだろう。
 必要に迫られて生まれた技術も、知的好奇心がもたらした技術もあるだろうが、その技術がどのような意味を持ち、どのような結果をもたらすかという倫理や哲学を、科学者自身が
しっかり考える必要がある。自らの作り出した技術によって、人類はおろか全生物を破滅させることも可能になってしまった(昆虫だけは生き残るかもしれないが)現代社会において、神の創造した世界の秩序をとり戻そうとすることは、必然の成り行きだと思える。


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